園だより(2014年5月)
新たな旅立ち
2008年3月7日9時過ぎ、門の前に立って園児を迎えていた私に職員室から呼び出しがあった。家からの電話であった。「大阪大医学部に合格した」という連絡であった。話す方も興奮していた。センター試験がよかったので、阪大を受験することは知っていたが、多分浪人するか後期の大学だろうと思っていた。まさか合格とは私の想定外であった。本人は満更そうではなかったと後で言っていたが。早速お祝いで食事会を開いたのをよく覚えている。あれから6年の歳月が流れた、その間本人は泉北の家から吹田まで毎日通学した。その6年間、ひたすら医学部歯学部ラグビー部で青春を謳歌した。3年生の時に西医体の大会で優勝したことも本人には一つの大きな勲章だろう。学問よりもまずラグビーありきだった。勉強している姿をあまり見たことはなかった。同じ仲間が何人か留年していく中でよく6年間で卒業できたものだと思ったのは私だけでなかった。ひょっとしたら知らないところで勉強していたのかも。今年2月、桃山学院大学で行われた3日間の医師国家試験にも無事合格し、4月からは晴れて研修医となって病院に赴任していった。私が45歳の時の子供であった。70歳になるまでには必ず卒業するようにとの冗談じみた約束を守ったようだった。医師という資格はある意味恵まれた資格かもしれないが、本人の努力と母親のコラボの賜物と言っても過言でないかもしれない。美木多幼稚園で3年間過ごした後、公立小学校に入学した。取り立てて何かできるという児童でもなかった。小学校4年生から堺東にある日能研という塾に通い始めた。公立の学校しか知らない私は塾など行かずに公立の中高へ進んだらと話をしたが、母親は何がそうさせたのかわからないが、必死であった。小学校を終えると電車での塾通いもあったが、母親の送り迎えも多かった。6年生の3学期は小学校に行くことが少なくなった。塾の勉強と私立中学校の受験のせいであった。私の考えと相いれないものであった。失敗した受験もあったが大半は合格した。大阪の星光学院に入学した。その学院は基本的には塾は反対であった。本人も星光の水にあったのだろう。喜々として学校に通学した。先生との良好な関係を保ち、友達もたくさんできたようだった。しかし小学校時代は良くても中学校に入ってみると成績は中位であった。そのまま高校に入っても1年次は同じような成績であった。本人はZ会に真剣に取り組み始めた。駿台では授業料無料の特待生になり、それと同時に梅田の鉄緑会にも通い始めた。帰り梅田の吉野家の牛丼を食べる日々が続いた。母親も必死だったのだろう。ほぼ毎日梅田まで車で迎えに行った。本人はいたって普通の高校生であった。校内、校外模試が3年生になると頻繁に行われるようになった。成績も今までの地味な努力が実ったのか、200人中100位くらいから2ケタ台後半、中位、前半と上昇していった。最後の校内模試では1ケタ台前半にまで上り詰めた。奇跡であった。校外模試も志望校のB,C判定が続いた。本人の着実な努力とそれなりの環境があったのかもしれない。今いよいよスタート台、学校の教員と同じようにいつまでたっても現場労働者、しんどい、厳しい仕事や日々が続くことだろう。先生が子供やその周りの人の喜ぶ姿を見ると今までの苦労が報われるのを感じるのと同様に、患者やその周りの人の喜ぶ姿を見ると気持ちが癒されるのも事実です。国から受けた支援、周りの人々からの暖かいサポート、何らかの社会的な貢献をすべく使命感を持ってこれからの人生を歩んでほしい。もっとも親の私が言うまでもなく、本人が一番自覚していることだろう。今回何かの参考になればと思って初めて個人的なことを園だよりで書かせていただきました。これに不快感を持たれた人がおられましたら、心よりお詫び申し上げます。
さて、5月、子供達は4月の緊張から解き放たれて行動も活発になる時です。連休明けは少ししんみり悲しくなる時があったとしても、もう完全に鳳幼稚園っ子、母の日をはじめとする様々な行事や保育活動を通じて成長、発達への階段を登っていきます。大きな期待の始まりです。園児たち、保護者の皆様そして私たち教職員が同じ仲間意識を持って子供達が楽しい園生活を送ることができますよう力を合わせていきましょう。皐月、5月、今月もよろしくお願い致します。