鳳幼稚園

園だより(2017年5月)

3月の梅の花、4月の桜の花は確かに私たち日本人の心に共鳴するものがあり、誰もその優雅さや美しさ、はかなさを否定するものはいないと思う。しかし、花の散った後の葉桜の姿に感銘を受ける人も少なくないのも事実だろう。その葉桜が、さも幼児が大きくなって大人に成長するように、弱々しかった葉の形状が本来の姿に変わり、薄緑色が濃い緑色に変わっていく5月、山や野原を歩くと、山ツツジや名も知らない無数の草木や樹木が私たちを気持ちの良い、爽やかな自然の優しさの中に引き込もうとする。例えば、木漏れ日は樹木から受ける大きな恵みだ。その中にいると、生きているという実感が湧いてくる。人は自然の全てのものから享受するものは大きすぎると言っても過言ではないし、私たちはその一部を活用させていただいているに過ぎない。考えれば、人間は本当にミクロの存在だ。たとえば樹木はどうだろうか。個人的には花の咲く木、実のなる木も含めて全ての樹木が好きだ。西洋では自殺すると木に変身させられると言われる。ディズニーの映画では木が擬人化されて、しゃべったり、走ったりしている。その真意は別にして、樹木は私たちの生活に密接にリンクしている。昔、防風林、防火林として、また、美的満足を得るために競って家の周辺に樹木を植えた。成長し、大きくなって立派にその役割を果たした。今は核家族化し、住宅も狭くなった。その為か昔のように大きな木を植える場所が存在しないので、京都風の矮小化した樹木を植えることが多くなった。それはそれでほっとした心の安らぎを得る意味で大きな役割を果たしている。街の植木屋さんも樹木の種類や大きさをそちらの方にシフトしている。人に寿命があるように、木にも寿命がある。日本人が大好きなソメイヨシノの桜の花は60年あまりと言われている。成長するのも早いが、散って朽ちるのもそれにひけをとらない。ひょっとすると近い将来この花は全滅するかもしれない。しかし、これは例外だ。大阪のシンボルツリーの楠は何百年いや千年を超えるかもしれない。私たちの仲間のハーモニー美木多のグループホームの敷地にある楠は、樹齢何百年の後半だろう。考えれば、明治時代も、江戸、戦国時代、そして室町時代もその目でしっかりと見、今も私たちをじっと見守っている。その敷地に今年3mくらいの高さの桜を30本程植えた。何十年か後に、そこを通る人が素晴らしいと愛で、先人に思いを巡らしていただければ本望、この上ない喜びだ。リンゴの種を植えて回ったというアメリカのジョニーアップルシードのまねをしたかったわけではない。山林で暮らしている人は、自分の子どもや孫の時代に立派な木を伐採できるように遠い未来を見つめて植樹している。自然との関わりは目先の利益を求めるのではなくて、遠い将来への投資だと言っても過言ではない。樹木は人と同じように、呼吸し、成長し、生きている。歩くことも出来ないし、逃げることも出来ないし、話すことも出来ない。寿命一杯まで生き続けることが出来そうな、人が入り込めないジャングルに生まれてきたらよかったと思っているかもしれない。過酷な環境の中で育った人があるように、樹木も又しかりである。人に守ってもらったり、人の役に立ったりすることもある。ただ先人が良かれと思って植えた樹木をただ邪魔だからといって、役に立たないからといって、無慈悲に切り倒したり、無惨な姿にされているのは非常に残念に思うことがある。樹木との共存共栄を図ることも私たちが心の豊かな人生を送る意味で大いに必要なことだろう。いろいろ主義主張はあるだろう。特に欧米では自己主張する人が多くて驚いたことがあった。今、日本にも自分の意見を押し殺した奥ゆかしさよりも、自分を主張することに重きを置く人が増えた。批判は甘んじて受け入れるとしても、私は樹木が一本もない施設よりも、緑あふれる施設の方が遙かに好きだ。仲間の幼稚園や老人施設は事情が許す限りの緑で一杯だ。しかし落ち葉や日陰のことで人に迷惑をかけるのであれば本末転倒だ。京都の庭園とまでは遙かに届かないとしても、美しい自然と共生することは大事なお子様の幼児期を預かる私たちにとって本当に大切なことであり、ひいては幼子たちの明るい未来につながっていくのも事実だろう。皐月、五月、緊張がほぐれて、ちょっぴり寂しく感じる月、十分見守りながら、進んで参ります。